価値観の希薄化が与える人生への悪影響について

 

 価値観について考えてみた結果をつらつらと書いていく。

 

 最近の私の人生において価値観そのものが希薄化しがちなように思えるが、人生全体からその希薄化を評価するとかなり悪い影響を及ぼしているのではないかという話。

 

 ここでいう価値観とは人間ごとに決まるものであって、ある考え方に賛成するか反対するか、あるものと別の物を並べたときにどちらがより重要と考えるか、という選択をある程度広い範囲にわたって集めたもの、ということにする。

 

 最近の私の話をしたいので大学に入学してからの時期の私に話を限定する。大学に入って色々な事象を見聞きするにつれて素朴な判断についての信頼が揺らいできた。「道徳は存在するか」「時間が進むとはどういうことか」「科学とは何か」「生物が豊かな機能を持つのはなぜか」「人間の認知はどのように歪んでいるか」などといった素朴な問いかけに対してもほとんど無限の論点が存在し、素朴な判断が修正*1を受けずに済むことはほとんどあり得ない。

 

 また、自分が思ってもいなかったような考え方を知ることも数えきれないほどあった。「入出力が定義されている、いくつかの仮定を伴ったシステムに関して、望ましい出力を得るという極めて抽象的な問題に対してかなり一般的な議論を数式を使って展開することができる」とか「人間の感覚や人間のスケールの世界は連続的な情報がやり取りされおり、連続的な情報の方がなじみ深いが、が離散的な情報は情報処理、情報伝送の点で圧倒的に連続的な情報より優れている」とか。このような考え方の大規模な更新もまた素朴な判断に対する不信感に寄与するのは当然であった。

 

 大学で学んだことだけではなく、大学受験が終わってからTwitterに入り浸る時間が増えたこともまた、少なからず影響を与えているかもしれない。日々Twitterでやり取りされるようなクソみたいな議論を眺めていて、ある考え方に賛成か反対か、という問題を考えようとしても大勢の順張りを基準にして逆張りを選ぶか順張りを選ぶかというその時の気分に回収されてしまうような気がしてしまうことが多い。ここでもまた素朴な判断は機能していない。あるいは、Twitterのようなカスみたいな環境で論じられる問題の大体は(あるいは私が世間知らずなだけで大体の問題はそうなのかもしれないが)、集められているべき前提のひとつである事実関係が信頼できないことが多く、このような事実があるならばこの考え方が正しいし、別の事実が正しいならばその考え方が正しい、といったような事実関係が変化しても妥当性を損なわないような主張を構築しがちである。こうなるともはや賛成するか反対するかの判断自体行われていない。

 

 そうこうしているうちに、素朴な判断より信頼できる判断の方法として、事実のデータをとり、公理と定義を定め、正しい推論を行うという姿勢が望ましいなぁと思うようになった。

 

 この姿勢の利点は素朴な判断と比較して妥当な結論をだしやすいことだけではない。議論の出発点の相違を「立場の違い」として定式化することの魅力がある。私たちが日常的に使う通常の推論は「いくつかの前提から出発して正しい手続きとして認められた少数の推論規則を用いて結論を導く」ものであって何を前提として選ぶかによって(妥当性を保ったまま)得られる結論は変わる。違う言い方をすると前提を固定すれば自動的に(形式的に)得られる結論の集まりは定まる。異なる議論の方法で異なる結論が出てきたとき、推論に瑕疵がないならば、どの前提を認めるかという立場の違いに帰着することができるし、両者の立場はさしあたっては対等な権利を有する。必ずしも無理に立場を統一する必要はない。一般に、任意の立場を二つとってきた場合、包含関係が成立してたり、二律背反が成立していたり、完全に独立であったり、ある種の関係をもち、一つの構造をなしている。

 

 ある考え方に対する賛成の主張と反対の主張とが与えられて、どちらも推論の手続きに目立った瑕疵がないならば両者は異なる立場から導かれていることが分かるはずである。(我々が日常で用いている推論は前述したようなフォーマルで古典的な論理よりもロバストな性質を持つと思われるので若干の飛躍があると思われるが詳しくないので突っ込まず、これまで語っていたことを一次近似的な簡単なモデルとして引き継ぐ)二つの主張が与えられたときにそれぞれの主張が立脚する立場同士の構造について、私は興味をひかれる。

 

 一例として、五輪担当大臣の「がっかり」発言全体に対しての是非について考える。「選手をコマとしかおもっていないような発言は不適切」とか「五輪担当大臣としてチーム全体を気遣うのは当然」みたいな個別の意見、どちらの立場を表明するのかという政治的問題、にはあまり興味がない。それよりも、「国の代表選手が成果を上げたら『その成果は選手の努力の成果ととられるべきであって国は関係ない』か『国として誇りに思う』かどうか」についてとかと構造が似てる感じがして、もう少し一般化しようとするなら「集団と個の対立についての価値観」がクリティカルに是非を分ける価値観な感じがするし、集団に対して重きをおく人にとっては後者のような主張をするのにも妥当性があるし、個人に対して重きを置く人にとっては前者のような主張になりがちだよね、みたいなメタな視点の方に関心がいきがちである。*2

 

 このようなメタな視点、構造の概観を志向する視点はもともと提示されていた立場のどちらかに基づく判断と比べてより一般的であり、魅力的である。よりメタな視点で得られた主張が真にあらゆる意味で妥当かどうかはさておき*3、二つの異なる主張を前にして必ずしも一般性をもたない価値を導入してどちらかを選ぶよりも、二つの異なる主張の両方が妥当になるような新しい一般的な条件を導入することでよりリーズナブルに妥当な主張を構成することができる。このように、妥当ではないことを言いたくないという欲求に対しては、構造の概観を志向する視点は多大な貢献をする。

 

 しかし、私の人生自身に焦点をあてたときにそのような視点の上滑りは価値判断の背景化、価値観の空洞化をもたらし、人生全体に悪い影響を及ぼすのではないかと思えてくる。目の前に提示されたある考え方に賛成するか反対するか、あるものと別のもの、どちらが重要だと思うか、という問いに対して、新しい変数を導入して選択の相違を一般的な視点から説明したところで、私はどの選択をするのか、という問題に対しては無力であり、選択の先送りでしかない。つまり、一連の活動の中で私自身の選択の創出までに至っていないのである。私の価値観を構成するのは一つ一つの選択であり、その選択が積み重ならない以上、価値観を構成する要素が増えない。つまり価値観の空洞化を引き起こすことになる。からっぽの価値観のままで無防備のまま生きていくというのはいかにも危ういように思える。私も生きていくうえで「あれか、これか」という人生の選択を迫られるであろう。そのとき、私の人生をより良いものにする選択を選びたいならば、あるいは、結果的に人生をよくせずとも後悔しない選択をしたいのであれば、上滑りの鑑賞は役に立たないはずだ。

 

 人間、誰しも妥当でないことは言いたくないだろうし、妥当なことしか言いたくないというのはそんなに珍しい性格とは思わない。また、それが必ずしも悪いものとは思わない。が、任意の人の性質についていえるようにこれもまた程度問題であろう。というより悪影響が出ているならばそれは許容されている程度を越えているのだ。

 

 このような貧弱な価値観はどのようにして形成されたのかということをもう少し考えてみたい。私が大学で学んできたことは大体は体系化された、科学と技術とほんの少しの哲学に分類されるものであった*4。とくに体系化を経たこれらそれぞれの文脈において、価値観(一人の人間が人生の中で行う選択)が果たす役割は限りなく小さく思える。私が学んできた科学は現象を制御するものであったし、技術は定義された利得を最大化するためのものであったし、哲学はできるだけ多くの構造から自由になることを志向する体系であった。*5つまり、強固な価値観に寄与するものが少なすぎたのである。

 

 本稿によって価値観の空洞化とその過程、価値観の弱体化という観点からみた私の課題が明らかになった。今後の研究の展望としては今から人生が好転するとは思えないので諦めたいと思います。

*1:ここでいう修正とは、単純な判断の転換もあるが、判断の妥当性を保証する留保や条件などの付与も含める

*2:このメタな視点から得られた主張にどの程度妥当性があるかは今はどうでもいいので掘り下げるつもりはない

*3:例えば、さっきの例だと「集団と個の対立についての価値観」よりがっかり発言に対する姿勢にとってよりクリティカルな価値観が存在する、のような主張もありうる。

*4:その他を学んだ記憶がない、例えば語学とか

*5:もちろん一般的に科学、技術、哲学という語を用いて指される領域に比べれば極々狭い領域であろうが