料理をしたらおいしかったので記録をつけてみる

 結構おいしくできた料理のお気持ちを書いてみる。

1.トマトと野菜のパスタ

材料

  • パスタ適量
  • ホールトマト1缶(100均のやつ使った)
  • ケチャップ
  • タバスコ
  • 人参か玉ねぎ(うまみの中心になってくれそうな野菜なら多分何でもいい)
  • 何かしらの肉
  • ピーマンとか余ってて消費したい野菜
  • キノコとかもあればおいしいかもね
  • オリーブオイル
  • バジル(振りかけるやつ)
  • にんにく適量

 パスタをゆでる…適当にパスタをゆでてアルデンテっぽくなったらザルに挙げてオリーブオイルをかけて混ぜます。

 ソースを作る…パスタをゆでてる間にテキトーにソースを作ります。

 人参か玉ねぎかなすとかいいかんじの味が出そうな野菜とトマトに合いそうなピーマンとか系の野菜とかとキノコとかお好みの具とにんにく(重要)をオリーブオイルで炒めます。いいかんじになったらなにかしら脂系の味をいれたいのでテキトーな肉(加工肉でもいいしテキトーな豚肉とかでもいい)をいれます。

 火が通ったらホールトマトを入れます。ホールトマトは思ったより味が薄いので(100均の奴だからか?)ケチャップとタバスコでうまみと深みをいい感じにします。あと水っぽいのでグツグツしてる感じで焦がさないようにして水を飛ばします。

 ソースとパスタを合わせる…テキトーに合わせて混ぜてからどこのご家庭にも必ずある乾燥バジルを振りかけます。乾燥バジルは任意の洋風料理に合うので任意のご家庭が常備するべきです。完成です。

2.カキとエリンギのバター醤油ソテー

材料

  • カキ1パック
  • エリンギ1パック
  • バター
  • 醤油
  • オリーブオイル
  • バジル
  • 白ワイン
  • キッチンペーパー
  • 塩コショウ
  • にんにく

 カキを買う…割引セールタイムのスーパーに行くと加熱調理用カキが30%オフになってるので買います。カキじゃなくても貝なら何でもおいしいかもしれません。ホタテとか。エリンギもしめじとかで代用できるかもしれません。

 カキを洗う…カキは汚れてるので洗わないといけないらしいです。調べたら片栗粉で洗ったり大根おろしで洗ったりしてもいいらしいけど面倒なので塩水でちゃっちゃと洗います。流水で流してキッチンペーパーにあげてコショウを振っておきます。

 エリンギを切る…エリンギをこれちょっと大きいかもねくらいの大きさに切ります(焼いたら縮むので)。あんまり大きいと中まで火を通すのが大変なのでそこらへんは空気を読みます。

 カキに一回火を通す…フライパンにオリーブオイルを入れてほどほどの火力で熱してからカキに一回火を通します。完全にではないけどほどほどに火が通ってそうな感じになったら一回取り出します。

 ソテーする…同じフライパンでエリンギを炒めます。いい感じに火が通ったらバターとにんにくとカキを入れてソテーします。なんかカキに触りすぎるとしぼんだりうまみが抜けたりしてよくないらしいのでほどほどにします。最後に塩コショウ、醤油の香りづけ、任意の家庭に常備してあるバジルで整えて完成です。

 白ワインと一緒にいただく…白ワインは料理には使わないけど完成品を白ワインと一緒にいただくと幸せになれるので必要です。

 ソースが残りますが絶対に捨てないでください。焼いたパンにつけて食べるとデニーズでいうと698円くらいの味になります。

参考;

www.ntv.co.jp

3.マグロのステーキ

材料

  • 買ってから一日経ったりしてそのままいくのはちょっと勇気が必要なマグロ適量
  • ゴマ油
  • 塩コショウ
  • バジル
  • ビール

 買ってから一日経ったりしてそのままいくのはちょっと勇気が必要なマグロをどうにかしたいときに有効です。カツオとかでもいいかもしれません。将太の寿司でも牛のステーキと区別つかないっていってたよ。

 ゴマ油でマグロを焼いて塩コショウで味付けしてバジルを振ります。中まで火を通し切ってしまうとぼそぼそになってしまうのでレアにとどめましょう。多分危ないのは表面だけだしね。

 脂をビールで流し込むと幸せになれます。よなよなビールといただいたけどよかったです。

 

4.白だしキャベツ

材料

 塩昆布キャベツすら面倒な人におすすめです。食べやすい大きさのキャベツに濃縮液体白だしをストレートでかけます。うまみの暴力の中でも自己を見失わないキャベツの主張がいい感じになります。手間のわりに人権を感じられます。

 

5.ドリトス

 酒のおつまみに最適なスナック菓子1位はドリトスです。

 

これを読んだ人のうまくいったレシピを知りたいのでぜひブログに書いて教えてください。

以上。

 

 

 

22年生きてきて気づいたけど12時に起きると一日が短い

 昨日は1時くらいに寝落ちして8時くらいに一回目が覚めた気がするけど眠かったので二度寝して気づいたら12時だった。もはやこの生活になんの疑問も抱かなくなってきたのだが改めて考えるとめっちゃ損してる気がしてきたので自分がいかに損しているかを書いてみる。

 翌日のことを考えると就寝時間は1時より遅くできないので12時起きると一日の可処分時間は13時間となる。一方で規則正しく7時起床23時就寝くらいの規則正しい生活を続けることができると睡眠時間は8時間も確保できるうえに一日の可処分時間は16時間に増える。倍率にして1.3倍である。消費税が8%から10%に増えても1.25倍なのでそれより大きい。三時間増えると何ができるかというと、東京大学と自宅を往復できる。実はこれは嘘で、バスの時間によっては三時間では足りない。

 また、両者の時間帯を比較すると、図書館などの外部の施設の使用可能時間は規則正しい生活の方に合わせて設定されている。東大の総合図書館の営業時間はこの時期は平日8:30-21:00、土日は9:00-17:00である。総合図書館はなんかいいにおいするしあったかいし好きです。

www.lib.u-tokyo.ac.jp

利用することが多いカフェベローチェの営業時間は7:00~23:00である。

このように、規則正しい生活だと可処分時間が増える上に時間の使い方の選択肢が増える。夜に起きていてもできることはインターネットくらいしかないので。あと夜は寒い。

 加えて、週末に睡眠リズムを崩して長めの睡眠をとることは健康上のリスクを増加させるらしい。興味ないけど。

www3.nhk.or.jp

 今日はネットして競プロしてゲームして本読んでコーヒー飲んで本読んで漫画読んでたら終わったのでかなり時間がたつのが早かった。というか途中で一時間くらい昼寝したのでさらに起きている時間が減った。一日の時間が短いので就寝時間も後ろにずれていき、起床も後ろにずれ、可処分時間が減る。勝手に私の一日を短くしないでほしい。

 朝起きてから太陽を浴びて音楽を聴くと目が覚めるらしいので試してみる。おしまい。

価値観の希薄化が与える人生への悪影響について

 

 価値観について考えてみた結果をつらつらと書いていく。

 

 最近の私の人生において価値観そのものが希薄化しがちなように思えるが、人生全体からその希薄化を評価するとかなり悪い影響を及ぼしているのではないかという話。

 

 ここでいう価値観とは人間ごとに決まるものであって、ある考え方に賛成するか反対するか、あるものと別の物を並べたときにどちらがより重要と考えるか、という選択をある程度広い範囲にわたって集めたもの、ということにする。

 

 最近の私の話をしたいので大学に入学してからの時期の私に話を限定する。大学に入って色々な事象を見聞きするにつれて素朴な判断についての信頼が揺らいできた。「道徳は存在するか」「時間が進むとはどういうことか」「科学とは何か」「生物が豊かな機能を持つのはなぜか」「人間の認知はどのように歪んでいるか」などといった素朴な問いかけに対してもほとんど無限の論点が存在し、素朴な判断が修正*1を受けずに済むことはほとんどあり得ない。

 

 また、自分が思ってもいなかったような考え方を知ることも数えきれないほどあった。「入出力が定義されている、いくつかの仮定を伴ったシステムに関して、望ましい出力を得るという極めて抽象的な問題に対してかなり一般的な議論を数式を使って展開することができる」とか「人間の感覚や人間のスケールの世界は連続的な情報がやり取りされおり、連続的な情報の方がなじみ深いが、が離散的な情報は情報処理、情報伝送の点で圧倒的に連続的な情報より優れている」とか。このような考え方の大規模な更新もまた素朴な判断に対する不信感に寄与するのは当然であった。

 

 大学で学んだことだけではなく、大学受験が終わってからTwitterに入り浸る時間が増えたこともまた、少なからず影響を与えているかもしれない。日々Twitterでやり取りされるようなクソみたいな議論を眺めていて、ある考え方に賛成か反対か、という問題を考えようとしても大勢の順張りを基準にして逆張りを選ぶか順張りを選ぶかというその時の気分に回収されてしまうような気がしてしまうことが多い。ここでもまた素朴な判断は機能していない。あるいは、Twitterのようなカスみたいな環境で論じられる問題の大体は(あるいは私が世間知らずなだけで大体の問題はそうなのかもしれないが)、集められているべき前提のひとつである事実関係が信頼できないことが多く、このような事実があるならばこの考え方が正しいし、別の事実が正しいならばその考え方が正しい、といったような事実関係が変化しても妥当性を損なわないような主張を構築しがちである。こうなるともはや賛成するか反対するかの判断自体行われていない。

 

 そうこうしているうちに、素朴な判断より信頼できる判断の方法として、事実のデータをとり、公理と定義を定め、正しい推論を行うという姿勢が望ましいなぁと思うようになった。

 

 この姿勢の利点は素朴な判断と比較して妥当な結論をだしやすいことだけではない。議論の出発点の相違を「立場の違い」として定式化することの魅力がある。私たちが日常的に使う通常の推論は「いくつかの前提から出発して正しい手続きとして認められた少数の推論規則を用いて結論を導く」ものであって何を前提として選ぶかによって(妥当性を保ったまま)得られる結論は変わる。違う言い方をすると前提を固定すれば自動的に(形式的に)得られる結論の集まりは定まる。異なる議論の方法で異なる結論が出てきたとき、推論に瑕疵がないならば、どの前提を認めるかという立場の違いに帰着することができるし、両者の立場はさしあたっては対等な権利を有する。必ずしも無理に立場を統一する必要はない。一般に、任意の立場を二つとってきた場合、包含関係が成立してたり、二律背反が成立していたり、完全に独立であったり、ある種の関係をもち、一つの構造をなしている。

 

 ある考え方に対する賛成の主張と反対の主張とが与えられて、どちらも推論の手続きに目立った瑕疵がないならば両者は異なる立場から導かれていることが分かるはずである。(我々が日常で用いている推論は前述したようなフォーマルで古典的な論理よりもロバストな性質を持つと思われるので若干の飛躍があると思われるが詳しくないので突っ込まず、これまで語っていたことを一次近似的な簡単なモデルとして引き継ぐ)二つの主張が与えられたときにそれぞれの主張が立脚する立場同士の構造について、私は興味をひかれる。

 

 一例として、五輪担当大臣の「がっかり」発言全体に対しての是非について考える。「選手をコマとしかおもっていないような発言は不適切」とか「五輪担当大臣としてチーム全体を気遣うのは当然」みたいな個別の意見、どちらの立場を表明するのかという政治的問題、にはあまり興味がない。それよりも、「国の代表選手が成果を上げたら『その成果は選手の努力の成果ととられるべきであって国は関係ない』か『国として誇りに思う』かどうか」についてとかと構造が似てる感じがして、もう少し一般化しようとするなら「集団と個の対立についての価値観」がクリティカルに是非を分ける価値観な感じがするし、集団に対して重きをおく人にとっては後者のような主張をするのにも妥当性があるし、個人に対して重きを置く人にとっては前者のような主張になりがちだよね、みたいなメタな視点の方に関心がいきがちである。*2

 

 このようなメタな視点、構造の概観を志向する視点はもともと提示されていた立場のどちらかに基づく判断と比べてより一般的であり、魅力的である。よりメタな視点で得られた主張が真にあらゆる意味で妥当かどうかはさておき*3、二つの異なる主張を前にして必ずしも一般性をもたない価値を導入してどちらかを選ぶよりも、二つの異なる主張の両方が妥当になるような新しい一般的な条件を導入することでよりリーズナブルに妥当な主張を構成することができる。このように、妥当ではないことを言いたくないという欲求に対しては、構造の概観を志向する視点は多大な貢献をする。

 

 しかし、私の人生自身に焦点をあてたときにそのような視点の上滑りは価値判断の背景化、価値観の空洞化をもたらし、人生全体に悪い影響を及ぼすのではないかと思えてくる。目の前に提示されたある考え方に賛成するか反対するか、あるものと別のもの、どちらが重要だと思うか、という問いに対して、新しい変数を導入して選択の相違を一般的な視点から説明したところで、私はどの選択をするのか、という問題に対しては無力であり、選択の先送りでしかない。つまり、一連の活動の中で私自身の選択の創出までに至っていないのである。私の価値観を構成するのは一つ一つの選択であり、その選択が積み重ならない以上、価値観を構成する要素が増えない。つまり価値観の空洞化を引き起こすことになる。からっぽの価値観のままで無防備のまま生きていくというのはいかにも危ういように思える。私も生きていくうえで「あれか、これか」という人生の選択を迫られるであろう。そのとき、私の人生をより良いものにする選択を選びたいならば、あるいは、結果的に人生をよくせずとも後悔しない選択をしたいのであれば、上滑りの鑑賞は役に立たないはずだ。

 

 人間、誰しも妥当でないことは言いたくないだろうし、妥当なことしか言いたくないというのはそんなに珍しい性格とは思わない。また、それが必ずしも悪いものとは思わない。が、任意の人の性質についていえるようにこれもまた程度問題であろう。というより悪影響が出ているならばそれは許容されている程度を越えているのだ。

 

 このような貧弱な価値観はどのようにして形成されたのかということをもう少し考えてみたい。私が大学で学んできたことは大体は体系化された、科学と技術とほんの少しの哲学に分類されるものであった*4。とくに体系化を経たこれらそれぞれの文脈において、価値観(一人の人間が人生の中で行う選択)が果たす役割は限りなく小さく思える。私が学んできた科学は現象を制御するものであったし、技術は定義された利得を最大化するためのものであったし、哲学はできるだけ多くの構造から自由になることを志向する体系であった。*5つまり、強固な価値観に寄与するものが少なすぎたのである。

 

 本稿によって価値観の空洞化とその過程、価値観の弱体化という観点からみた私の課題が明らかになった。今後の研究の展望としては今から人生が好転するとは思えないので諦めたいと思います。

*1:ここでいう修正とは、単純な判断の転換もあるが、判断の妥当性を保証する留保や条件などの付与も含める

*2:このメタな視点から得られた主張にどの程度妥当性があるかは今はどうでもいいので掘り下げるつもりはない

*3:例えば、さっきの例だと「集団と個の対立についての価値観」よりがっかり発言に対する姿勢にとってよりクリティカルな価値観が存在する、のような主張もありうる。

*4:その他を学んだ記憶がない、例えば語学とか

*5:もちろん一般的に科学、技術、哲学という語を用いて指される領域に比べれば極々狭い領域であろうが

今年の振り返り

 

abstruct

残ってる課題とか諸々のことしようと思っても手につかないし、一年の振り返りに関するまとまった文章でも書こうと思ったところ、ここが一番ふさわしいだろうということになった。おもくそ放置していたけど。月単位で勉強したこととか振り返ろうとしたけど記憶が吹き飛んでいる個所がある。まぁしかたない。

結局今年何したかと言われると、女児アニメ見て実験に苦しんでいろいろな領域をつまみ食いしただけで何か自分の技能として身に着けたことはありますか、と言われると答えに窮するというのが本当のところかもしれない、とここに書いていて悲しくなってしまった。

2018年は終盤にプリパラとかいうバケモンアニメに出会ってしまったのが一番大きな出来事だったかもしれない。もっと早く観ておけばよかった。

学問の方向でいうとかじったものはコンピュータアーキテクチャとか電子回路とか固体物理とか光学とか電子工作とか機械学習とか制御とかデバイス系とかC++とか実験に関する細々とした技能とかまぁ色々挙げることはできるけど使い物になるくらいの知識があるかと言われると(略)。

一月

深夜コンビニバイトとかいう虚無バイトを12月で退職して自由の身になったものの学科の二月まで続く期末試験に襲われる。

電デバの内容は結局夏学期開講の半導体バイスの勉強をしたときに何とか拾った(拾えてないかもしれない)。

 

 信号解析とか電磁気とか手法5とか生命科学概論とかエネ工とか回路理論とかまぁいろいろ頑張ったなぁというかんじで懐かしい。

プログラミング基礎演習の最後にやった音声処理の入門の入門(独立成分分析を用いた音声の分離)はテストが終わった後にゆっくりとできたので結構よい精神状態で取り組めたし面白かった。(これは多分二月)

二月~三月

生産的なことをした覚えがない。

一応前々から積んでいたこれ↓とか

 

リーマンの数学と思想 (リーマンの生きる数学)

リーマンの数学と思想 (リーマンの生きる数学)

 

 これとか↓

メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

 

 ずいぶんと前から積んでたこれ↓とか

量子論の基礎―その本質のやさしい理解のために (新物理学ライブラリ)

量子論の基礎―その本質のやさしい理解のために (新物理学ライブラリ)

 

 

読んでいたのはこの辺の時間だった気がする。めちゃくちゃ面白かったので(メタ倫理学入門の方は同意しかねる内容も多々あったが)内容は結構よく覚えている。 それ以外にも30講シリーズとかを流し読みした。固有値問題30講は前半だけでもめちゃくちゃ良書だったので(おそらく誤植見つけたけど)また読み直したい。後半は関数解析だったので自分には縁がない問題かもしれない。(概論的には量子力学に関する、シュレディンガー的な微分方程式の捉え方とハイゼンベルグ的な無限次元行列の捉え方がヒルベルト空間上の作用素の問題として統一されるんだな、というのが結構実感できた気がする。実力がないので中身を伴って理解できたとは言えないと思うが…)

集合への30講とか位相への30講とかも読んだけど割と雑に読んでしまったのであまり覚えていない。

 

固有値問題30講 (数学30講シリーズ)

固有値問題30講 (数学30講シリーズ)

 

 

 

「リーマンの数学と思想」は数学の哲学の入門としてもすごくいい本だし、大学の数学をかじった人なら誰が読んでも面白いはず。近代数学の勃興の中で生じたリーマンの思想を豊富な文献の裏付けから導く良書です。数学が前近代数学から近代数学へと脱皮する中で「数学的な実在」に対する概念のドラスティックな変革があった、というのがこの本の中で繰り返し強調されている主張の一つなのですが、その語り口が非常に生き生きとしていて本当に読んでいて面白い本でした。

「メタ倫理学入門」はその名の通りメタ倫理学という枠組みを使って倫理について考えることができる良書です。例えば倫理の実在について考えたり(ここで実在ってなに?と問うてもよい)いわゆるwhy be moral? について考えたり、そういうことに少しでも興味がある人は絶対に読んで損しない本です。(しかし「~~と感じるような心は無視できないのではないだろうか」みたいな記述が気にいらない。そういうどうとでも変わりうるお気持ちって議論に値することなのだろうか…)

量子論の基礎」は前提知識をほとんど仮定せずに可能な限り一般的な量子論の枠組みを解説する教科書。練習問題もある。(が、電気系学科において役に立つかというとまぁそういう系の教科書ではない。そういうのを期待してるなら小出か猪木川合の方が適している。)

あとはこれ↓とか(タイトルがダサいけど量子重力理論の概説書としては結構面白かった)

 

すごい物理学講義

すごい物理学講義

 

あとなんか数学の面白い小話がたくさん載ってる面白い本を読んだけど題名を忘れた()

 

それ以外はFGOのバレンタインイベを走ってアイカツ1stシーズンとアイカツスターズリアタイで時間が溶けた気がする。あと二月の終わりにアイカツ武道館行ったのは覚えてる。

アイカツ武道館で初めて武道館行ったけどピンチケでアホみたいに盛り上がった記憶がある。一日目のゴシックメドレーが一番好きだった。無印もスターズもフレンズも好きな曲がゴシック系に固まりすぎてる。ゴシック世界一すき。ていうかユリカ様がすき。(小学生並)

アイカツ関連でいうとアイカツアニONと芸カに参加した。アニONは武道館直後でめちゃくちゃ盛り上がってた思い出がある。新木場まで行って本当に新木場はageha以外に何もないんだなぁということが分かった。(小並感)

芸カは凛まど本が手に入ったので行ってよかったというのは覚えてるけど直後に原因不明の高熱に一週間くらい悩まされたのが記憶に残ってて戦利品はあまり覚えていない。

読もうとして投げたままにしてある本も結構ある気がするけど思い出せないので省略。

四月

新学期が始まって本郷に通うようになった。とにかく水曜日が雨だったのとP実験がつらかったこと以外の記憶がない。P1実験で電子工作の常識とかTeXとかグラフソフトとか諸々の常識が欠落していることを思い知ったけどレポートの期限はなぜか実験後一週間だし毎週鬱病になってた。勉強はあまりできていなかったと思う。

アイカツフレンズが始まって最初見たときはこのアニメ大丈夫かなって感じだったけど今めっちゃおもろいです。湊みおっていう人と白百合かぐやっていう人が何から何まで最高ですね。あとよりもいとかいうアニメを一気見した記憶がある。こーれまじで神アニメだったから全人類視聴するべきまじで。

五月

五月祭があったらしいけど特に何もしなかった。物理工学科の授業行って理論が緻密だなぁ(小)とかやってたらスピンの合成とか熱力学変数の統計力学的見方とかなにも身につけることができなかった。固体物理は、群論とかいうの数理手法5でやったし(震え声)って言ってたらよくわかんなくなってた。

六月

本当に記憶がない。A実験とかやってそう。アナログ回路実験が厳しかった。控室が楽しかった。22の誕生日があったらしい。人生大丈夫か?授業に関しては高木先生と竹中先生かっこいいなぁ(こ)とか思ってた。多分。

七月

周りの電気系とは違い物理工学科科目で単位を水増し(?)していたのでほぼ七月の早い段階で試験は全部終わるスケジュールだった(物理工学科の科目は前半に試験が集中しているため)。が、前半に物工の試験が固まっているにもかかわらず試験が始まるぎりぎりまで実験+実験レポートを片付けることができず(最後らへんはIP電話の実験だったのにGTK+にアホみたいに苦しんでた。)、加えて物理工学科の科目との向き合い方を多分に間違えていたので満足に勉強できていたとはいいがたい。物理工学科の遠征科目については、固体物理は良で量子力学統計力学は落としました…。(統計力学は単位が来た。)

何故かPCを買って何故か試験前にcivilizationを始めた。PCは今年買ってよかったものランキングで一位です。前のPCはコンセントにプラグを指しておかないと動かないACERの欠陥ノートPCでCPU;cerlone,ストレージ;HDDだったので誇張ではなく人権がなかった。後期実験前にPCを買い替えられて本当に良かった…。買い替えたPCは予算の都合もありlenovoのideapad720sでCPUはRyzen5 2500UでSSD512(256かもしれない…)GB、メモリは8GB 重量は1.2kgを切るのでどこにでも持っていけます。価格は9万ちょっと(今見たら当然めちゃくちゃ値下がりしてたので精神に悪かった)耐久性がなさそうなのが若干使ってて気になる。

八月

何故か謎のコネでアナログIC設計会社の手伝いをするとかいうトチ狂ったバイトを始めてしまった。まぁLTspiceをいじるだけの簡単なお仕事だったので知ってることも結構多く楽しかった。後半は電子工作(micro:bit)をしてお賃金をもらっていた。なんであれでお賃金もらえてたんだろう…。お賃金で独習C++とかリーダブルコードとか蟻本とかコンピュロとかSzeとかを買った。独習C++は2018年12月30日現在、14章のうち6章を進行中です(吐血)お盆休みに山梨に行ったりした。あとは毎週映画館で映画を見てた気がする。ペンギンハイウェイ、フリクリのんのんびよりザ・プレデター、MEGとかを観た。ザ・プレデターとMEGは割りと後悔した。あと芸カに行ってアイカツフレンズやっぱええなという気持ちになってた。(これ七月じゃね?)(一部九月の記憶が入り混じってる)

 

 

 

リーダブルコード ―より良いコードを書くためのシンプルで実践的なテクニック (Theory in practice)

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プログラミングコンテストチャレンジブック [第2版] ?問題解決のアルゴリズム活用力とコーディングテクニックを鍛える?

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コンピュータアーキテクチャ (電子情報通信レクチャーシリーズ)

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半導体デバイス―基礎理論とプロセス技術

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九月

九月って学校始まるイメージあるけど26日までバイトだったのでほとんど八月と変わらなかった。そういえばFGOは夏イベもネロ祭りもあまり走らなかった気がする。

十月、十一月、十二月

 記憶がない。ハロウィンはアイカツアニONに行った。芸カもあって結構戦利品があった。実験が始まってるはずなのでMOSFETのVI特性とか測ってたり電力の理想的な配分を求めたりoctaveと戯れたりモーターを回したりIoTシステムを作ったりしてたはず。金曜日の授業がぬるすぎたのでびっくりしてたはず。あとはクラなんとかクロなんとかとかいう関係式が強そう(こ)っていうのが一番記憶に残ってる。あとは冷え込んでくると授業出席難易度が指数関数的に上昇してびっくりした。実験だけは絶対に出席してたのでn限の出席率は気温をパラメータにしたフェルミ分布関数みたいになった(気温が高いとフェルミ準位付近はボケて1限出席率もまぁまぁあるけど気温が下がったらステップ関数的になった)

それとコースで本格的に授業が分かれ始めたのでH川さんとH田さんとN幸さんの優秀さを目の当たりにしてこれが大学の上澄みなんだなぁ(こ)という気持ちを毎日抱いていた。あとはフォトニクス実験一緒だったS君が優秀だなぁ(こ)という感じだった。期末試験は知らない。

後期実験は全体的にまとめると情報系の人たちはガンガンいろいろな実装の経験を積んでいる一方で電気系の実験はすぐに終わる測定をして無限にデータ解析に時間を溶かすという実験だったので謎の焦りを覚える毎日だった。

記憶がないとか言ってたが11月とかに何をしていたか今思い出した。プリパラ無印を一挙に視聴したので現実の記憶が希薄になっていたらしい。プリパラはマジで神アニメなので見てください。ハズレ回がマジで一話もないし特に3rdシーズンの重みは時間をじっくりかけられる女児アニメの良さを十二分に引き出せていたとしか言いようがないほどの傑作。CGも曲も大好きです。

あとは将太の寿司喰いタンミスター味っ子を読破するとかいう世界一もったいない時間の使い方をした。死にたい。 

 あとは「来る」とかいう映画を見た。柴田理恵って彼女の宗教的に祈祷師の役やって大丈夫なんか…?

なんかむしゃくしゃして本をたくさん買った気がするが覚えてるところではCPUの創り方とか(まーじでこの本ディジタル回路の前に読みたかった)

 

CPUの創りかた

CPUの創りかた

 

 

 きまぐれで買ったこれ↓とか(駒場のノスタルジーを味わった(駒場から離れて一年たってないけど))(サンデーのサイトで無料で結構読める)

漫画学科のない大学 (1) (サンデーうぇぶりSSCS)

漫画学科のない大学 (1) (サンデーうぇぶりSSCS)

 

 これ↓とか(小澤さんかっこよすぎる)(書かれている測定に関する思想の内容はよくわからん)

 

量子と情報 ―量子の実在と不確定性原理―

量子と情報 ―量子の実在と不確定性原理―

 

あとはこれ↓とか(世界一わかりやすいディープラーニングの入門書)

 

ゼロから作るDeep Learning ―Pythonで学ぶディープラーニングの理論と実装

ゼロから作るDeep Learning ―Pythonで学ぶディープラーニングの理論と実装

 

 

 

 あとは図書館で借りた本だけどベル研の本がめちゃくちゃ面白かった。電気系なら読んでおいて損はない。すぐ読めるし。電気系学部で習うものの半分くらいはベル研の発明です(たぶん)とか言われたらなんか面白そうじゃないですか。

世界の技術を支配する ベル研究所の興亡

世界の技術を支配する ベル研究所の興亡

 

 

そういえばこの時期に本屋に行ったらこれ俺の専門方向と関係ないし買わない方がいいんじゃねっていう心の声が思ったより大きくてびっくりした。つまらない人間になった。

 

 

 

 来年に向けて

来年はいよいよ研究が始まるのだが不安しかない(卒論って研究に含まれますよね?)(研究の体をなしたものをしたい)。研究室次第でテーマの方向も決まると思うけど漠然とポストムーアにおける情報処理デバイスみたいなところでデバイスの発展に貢献するか、それかもう少しシステムまでよってもいいからなんかムーアの法則が行き詰っているこの時代(あるいはもう少し先の時代)ならではの研究に貢献したい(これだけだとざっくりしすぎてmore mooreなのかmore than moore なのかでもはっきりしたほうがいいのではと思わないでもない(more moore ってGAA以外になにかあるのか))というのが現在の気持ちの説明としては一番妥当だと思うので、そういう研究に少しでも触れられたらなぁと思ってる。今興味あるのは光回路を用いた機械学習とスピンエレクトロニクスを用いたトランジスタだけどTwitterで拾った以上の情報を持っていないので完全なニワカ野郎でしかない。

あとは院試が控えてるけど普通に爆死しそうなので春休みから勉強をしたい。数学がうんちなのでまともに数学の問題が解けるようにリハビリしないといけない。線形代数とか微分方程式とか。そのほかの専門の知識もいうてうんちなので早めに見直さないとダメそう(研究室配属が希望通りいくかも不安だし)

全然関係ないけど来年に向けてということで、大学入学以来ずっと思い知らされてきたけど本当に通学時間とかいうので可処分時間を奪われるのが虚無なので来年こそは大学の近くに引っ越したい。足立区とか北区とかでもいいので。顔見知りならシェアハウスとかでも(俺は)全然かまわない(相手の方が嫌になる確率は高そう)のでとにかく引っ越したい。

来年を越えてもっと将来的にはメーカーっぽい進路しか残ってなさそうな感じになってるがJTBC(Japanese Traditonal Big Campanies)に飼い殺しにされて成長できず大企業での処世術にばかり詳しくなった挙句に一番市場価値のない年齢でリストラされるみたいな感じで人生詰みたくないので他の逃げ道も確保しておきたい。逃げ道なんて今から作れるのか…?

見返してみると勉強したことなんてほとんど書けてないし、というか一年で何も学んでいないのでは…?と思わないでもない。こんな感じで来年も生きていくしかないので鬱病にならない程度に生存していきたい。

 

 

 

 

 

書評:いま世界の哲学者が考えていること

 本が目に入ったので前からやりたかった書評というものをやってみたいと思う。半年くらい前に買った「いま世界の哲学者が考えていること」の書評。

http://amzn.asia/5C4m5HP

こういうのは3つより多くても3つより少なくても3つにして書くと分かりやすいらしいのでそうする。

  • 序章と1章はすばらしい。刺さった
  • 一つ一つのトピックは物足りない
  • 入り口としてはいいかも。とくに読むべき本のガイドや主要な論者の紹介は〇

 まずは序章について。以前戸田山和久の「哲学入門」

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を読んでから現代的な哲学が試みている問題群というのが気になっていた。デネットとかドレツキとかいう人がなんか面白そうなことを言ってた気がするけど細かいことは忘れた。多分自分は自然主義的な世界観を気に入ったのだろう。

 まぁとにかくウィトゲンシュタインとかアーレントとかカントが言ってることももちろん気になるけど同時代の哲学者は何を問題としてとらえようとしていてどのような立場が入り混じっているのか、とかそういうのが気になっていたので序章と1章の現代の哲学を概観する構成は気に入った。目次に並んでるフレーズを列挙すると「ポストモダン以降哲学はどこへ向かうのか」「ポストモダン以後の3つの潮流」「メディア・技術論的転回とは何か」「実在論的転回とはなにか」「自然主義転回とは何か」という感じである。現代の哲学の流れを簡潔に説明してもらえて非常にテンションが上がった。個人的には、哲学の流れは高校倫理の最後の項目で「ウィトゲンシュタインとかでてきたあとに戦後にサイードとか~フーコーとか~デリダとか~メルロポンティとか~サルトルとか~ラカンとかでてきました~」という認識で終わっていたので現在へと至る潮流というのがさっぱりわからなかったところをこの本で補うことができた。1960年ごろまでの傾向とそこから展開したポストモダン思想の概観、そのあとに現代哲学を理解するための「3つの転回」(自然主義的転回、メディア技術論的転回、実在論的転回)が示唆される。この流れがわかりやすかった。

 1章が興味を惹く内容だっただけに2章以降は少し微妙だったかもしれないと個人的には思う。知ってる内容に少し化粧をしただけの内容(チューリングテスト中国語の部屋、フレーム問題など)か、「お、これは聞いたことがない内容なので詳しく知りたいぞ」と思ってもさっさと次の内容に移動してしまうのでもどかしく感じてしまった。たとえばクローン人間に関する議論でハンナアレントの「出生性」という概念を紹介し、クローン人間に対する批判理論を構築しようとするが、ほとんどその概念を紹介しただけで終わっているように見える。もう少し突っ込んで擁護、批判の議論をまとめてほしかったという思いがある。

 そのような意図が筆者にあったのかなかったのか知らないが「本書をより理解するためのブックガイド」や「哲学者紹介」などのミニコーナーが異常に充実してるように見える。そのため、気になるトピックに出会ったときには次の一歩が踏み出しやすいのではないかと思い、良書だなぁと感じた。

日記の開設

 何か新しいものを始めたかったのでブログを書き始めることにする。日記はまともに続けたことがないが浪人時代細々とノートに一週間に一回くらい何故か筆ペンやら万年筆やらで適当なことを書いていたのを思い出した。雨が降ったので憂鬱とか物理ができないが今のような勉強方法で本当にできるようになるのだろうかとか色々読み返す価値もないようなことを書いていたがあのノートもどこかへ行ってしまった。河合塾の教室はいかにも予備校といった感じで高校とも大学とも違う陰気な雰囲気だったような記憶があるが、まぁ改変されたものなのかもしれない。自分がいた場所はそんな陰気な河合塾尾横浜校のなかでも一等陰気な場所だった。入塾テストで碌な結果を残さなかったクズがほとんどといった感じでバカと陰キャがほとんどであった。ちなみに自分はどちらだったかというとバカで陰キャであり、つまり両方だった。理系クラスであるにも関わらず「ベクトルってまじでわからないんだけど」とか「確率は分かるのに場合の数がマジでわからん」とか言っている人間か、黙っていてもそういう人間と同程度の人間ばかりであった。(ちなみに彼らは陰キャではなかったと思う。)もちろんどちらでもない人間もいたが、そういう人間はだいたい京大志望であった。京大クラスがなかったからその受け入れ先がそこだったのだろうか。

 河合塾にも他のほとんどの予備校と同じくラウンジという場所があり、年がら年中独特の弁当のにおいと陽キャの賑わいで覆いつくされていた。何故か自分は防虫剤で妨げられた蟲のようにあそこに近寄ることができず一年もあれば一回はいつか行くことになるだろうと避け続けたまま一度も足を踏み入れることなく浪人生活が終わった。ちなみに今年あの校舎は移転したので自分はもう二度とあのラウンジには入れないわけだ。やったぜ。

 日記ではないがTwitterはほとんど毎日続けている。もっというと意識しなければ一日の間開かないというのは非常に困難である。暇があれば、いや暇がなくてもツイッタバトルを追っているが病気ではない。Twitterは日記ではないのだが、こんなに長く続いている習慣は本当に珍しい。中学の時ニコニコ大百科を鬼のように追っていた時期が一時期あったがそれより長いのではないかと思う。やはり人に成果を見られる習慣というのはモチベーションが続くということだと思う。いや消費と深く結びついているというか単純に面白いものが流れてくるからというのも理由かもしれない。

 ノートに書くのとTwitterに投稿するのとPCに向き合ってじっくり一つの日記をキーボードで打ち込むのと、それぞれが違う傾向を持っていて驚く。まぁ当たり前だが。Twitterは手軽だが当然短いものに限定されるし、TLという他者との関係の中で吟味されるものであるという意識が強く働いているので人の目を強く気にしていると思うし、バラバラになりやすい。あたりまえだけど。

 Twitterに書こうとするとちょっとしたことでも140字を超えて複数のツイートにまたがってしまうが最近は言わなくても自分の中で整理が付けばその時点でどうでもよくなってしまうので複数のツイートをすることがなくなった。少し前は「飛行機が飛ぶ原理はようくわかってないというデマについての考察」とか「面食いがよくわからないのは面食いでない がよくわからないせいだ」みたいなことを複数ツイートで述べていたが、最近はなんだかそういう風に人に伝えるのがどうでもよくなったのかもしれない。あとは前提が増えすぎて自分が言うことを妥当に思ってもらう可能性を作るためだけでもそれなりの文脈が必要だなと考えるようになったからかもしれない。

 生まれてこの方消費にしか夢中になったことがないのでこんな駄文乱文でもひねり出すという活動は少なからずいい影響を生活に与えてくれると信じている。そういうわけで、書いていく。